ボチボチゆきます。🤗

2019年11月24日 04:51

タイトル:肥田春充(一種の超能力者)の嘆き………悟っても人類を救えない絶望感から彼が選んだ死への雑感


肥田春充さんという人をご存じで?

手元にあるのは、30年以上前の本だが、肥田式強健術を編み出した人物だ。
⚫️『鉄人を創る肥田式強健術』
高木一行 著
学習研究社 1986年刊

昭和61年に刊行された本。
古書店で手に入れたが、その時は健康法の本として興味を持っただけだったが、
あとになって、『ある意味、お悟りになられたヒトの本だったか☆』と気付いた。
それ以前からミステリー雑誌『ムー』の記事で名前だけは知っていたものの、当時はそれほどの興味を持たなかった。たぶん1980年代だったと思う。

この種の人々には、真っ先に科学者の政木和三を思い出すのだが、他にもいろいろおられる。
専門の道で偉業を成し遂げた人々の中に存在する、霊的な覚醒を遂げた人物達である。

この本によれば、肥田春充の明治16年〜昭和31年の生涯の中で、彼に絶賛の言葉を送ったのは、東郷平八郎(海軍大尉)、大隈重信(政治家、早稲田大学の創業者) などの著名人だったという。

今回はメモを残したい為に、記事にしているだけだが、肥田春充の「時間感」 というものについて、書き出したいと思ったのだ。
だが、この時間感というものによって、彼は自ら死を選んだ結果となった。
だが、この自死は、確かに絶望の死であるが、この本による情報からの想像を出るものではないが、飛田春充の自死は、時代が追いついていなかった故の空しさが原因ではなかったのかと思うのだ。
現代なら、違っていただろうと思う。
むしろ、もっと生きて、人々を救ったり、自分の研究をのびやかに続けていただろうと想像する。

では、肥田春充の最期の心境について、同時に時間感について触れる事になるが、その部分を本書から書き出してみよう。



本書のp.107より。


--------------------------------------引用始め


《「私の今日理解している宗教原理が一般に理解され、常識化するのには5000年かかる。否、それでも果たしてそのときがくるかどうか……」
  と晩年の春充は嘆いていたというが、営々10年以上にわたる深夜の研究によって昇りつめた地平で直面したのは、だれひとりとしてそれを理解できず、真摯に受けとめようという者のいない荒涼とした砂漠のごとき現実だった。
  そしてさらに春充の超能力は、日々新たな力が加わっていったのだが、この空前絶後の超人的能力は、ついに1000年の時間さえも空白にし、春充に未来のことごとくを明らかにした。
「昨夜分かったのであるが、時間には次の形態がある。
1絶対唯一の時間
2無限の時間
3無限球体積の時間
4動く時間
5動かざる時間
6時間ならざる時間
  私は今、時間ならざる時間の中にいきている」
  が、これは春充にとっては不幸なことだったと思う。
「この頭脳のすみわたっていかなる宗教哲学の真の真まで見極めることができたのは、なんたる幸福であろうかと思っていたが、その頭脳の透徹が、反面、非常な苦痛をともなうということが今になってはっきりとわかった。つまり、世界人類の1000年、2000年後の様相まではっきりと鏡の面に映されてくる。
  善いことだけははっきりと映って悪いことはぼんやり映ることはない。善悪いずれの結果も鮮明に映って私を苦しめる。人のことはどうでもいい。人類が悪い結果にかたむいていくならこれも仕方がないと思うような人は、私のような心境には絶対ならない。
  このどうにもならない結果から愛する人類をすくうことができない絶望感は、なにものにもかえることのできない最大の苦しみであり苦しさである。
  この映像を映さないようにするには、この鏡を割るより仕方がないのだが……」
鏡を割る───つまり死ぬより仕方がないといっているのだ。春充の絶望はその極みに達した。彼は早くから次のようにいっている。
「我すでに、現世の哲学的遍歴の旅を終わりて、現世に死にたり。死して現世に生あるの我である。これすなわち、完全なる解脱にして、真に大悟の極地である。ここにおいてか知る。死たるものの本質は、斎場の安楽境にして、清美のものであることを」》

-----------------------------------------------------------------------------------引用終わり




こうした心境に至った春充は、それ以降、食欲をなくし、水さえ飲めなくなる。
49日間の完全絶食の果てに、昭和31年8月24日午後10時、彼はこの世を去った。
こういった死に方に、疑問を持つ人もいるだろうと、著者高木一行さんもそんなニュアンスで書いている部分もあるように思うが、省略する。
肥田春充は、優れた強健術を生み出しながら、自ら死を選んだことは間違いない。

こういうある種の「悟り」の心境に至りながら、自死を選ぶ人々を、私は、結局は、最終的なヒトとしての傲慢さ、無知さ、それも煩悩由来のものが乗り越えられていないゆえの、再度言うが、傲慢と無知の自死選択であったと見ている。
もちろん、凡人が至れない、超能力や覚醒感覚に至った事は素晴らしい。だが、今の時代は、どうしても、何が何でも出来る限り、ひとりひとりが悟っていかなければならないと、尻を叩かれているような時代である。
肥田春充の段階まで行けた人が、のんびりと死んでいて良い状況ではない。
そういう人々は、生きのびて、その生命力の活力の源を伝えていかねばならない時代である。

まだまだ生きていけた生命を、むざむざと無にしてしまえるという事実は、やはり、生まれつきの本質的な脆弱さは、強権術を持ってしても克服できなかったのか……という印象を私に残した。
ともあれ、肥田春充の強健術は、私自身の(今よりもであるが)若い時期に、体調が最悪からようやく良い状態へ回復しかけるあたりという、ちょうど良いタイミングで古書を購入したお陰で、心身の崩れたバランスを整えようとしていた自分にとって、心も身体も姿勢を正す為に役立ったことは間違いないのだ。

付け足すと、月間『ムー』の綴じ込みページや特集で役立ったのは、私にとっては、霊現象や、超能力開発などではなかった。そういうものは、生まれつきの霊媒体質のせいで、不思議でも何でもなかった。
むしろ、人生では、邪魔なものなのに、なぜ、もてはやしているのだろうとは疑問だったが、かなり助かっていた。ありとあらゆる、なんでもありな情報が詰め込まれたいたからだ。
巷では、もてはやしたり、病気扱いされる両極端に評価される世界を、あれもこれも詰め込んだ雑誌がある不思議さ。
だが、本当に、役立っていた記事も多かった。また、『ムー』から、いろんな本を知ることができた。
ヤバかった時期もあったが、なぜか、その時期は、買っていないのが、また、我ながらなるほどね、である。1990年代半ばかな。
現在は、ネット情報も溢れているので、情報が錯綜としているが、自分にとっては、霊的な情報はもともと興味なかったが、より関心は薄れている。
とはいえ、この記事のように、過去の偉大な生命の指導者といえる人物の人生には、昔以上に、興味が尽きないのであるよ。






 

2019年11月21日 07:49

タイトル:8年ぶりの電話…………『痴人の愛(オブ・ヒューマン・ボンデージ)』にみる、境界性人格障害的女に振り回される男の不運について考える


『痴人の愛』原題『オブ・ヒューマン・ボンデージ』
(ベティ・デイヴィス、レスリー・ハワード主演)
境界性人格障害的な女に振り回される男の不運について考える今日この頃。

『17歳のカルテ』という映画をずっと観ていたのだが、それは、1960年代後半の映画なんだよね。
主人公は境界例というか、ボーダーラインの人格障害という病名を付けられていた。
主人公は、ウィノナ・ライダー。
準主役は、というか、ほぼ主役だが、反社会性人格障害という病名の役、アンジェリーナ・ジョリー。
素敵な女優さんばかりだから、楽しめるが、この物語、実話をもとにしているので、かなり、ハードだわ(^_^;)

こういったものを、最近興味深いと思えるのは、自分も若い頃、ボーダーラインだったのではないか、もしくは、それに近い精神常態だったのではなかったかと思えるからだ。
だが、自死未遂も、カジュアルsexもなかった。ただ、周囲にはいたように思う。
だから、小説が生まれたりした。

最近、ある知人から、8年ぶりに電話があった。
気まずい別れ方で終わっているので、お互いに、わだかまりがあり、電話はできないはずである。
しかし、彼女は平然と、まるで、一年くらいしか、間が空いてなかったかのように、しかも、気まずい行き違いがなかったかのように、話し始めたのだ。

私は、それから相手をしていたが、毎回、違和感を覚えていた。
正直、内容も含めて、彼女は心の病気じゃないのか?  と思っている。



本当に、
心から思う。



『痴人の愛』という映画を見ていて、あ、もちろん、谷崎純一郎の原作のではなく、
『ヒューマン・ボンデージ』という原題の、海外の映画だ。

ベティ・デイビスと、レスリー・ハワード主演。
レスリーは、『風と共に去りぬ』のアシュレー役の人。医学生ケアリーを演じる。
ベティ・デイビスは、『イヴの総て』の大女優マーゴ役の人。カフェのウェイトレス、ミルドレットを演じる。

ベティ演じるミルドレットは、若さと外見で男を虜にして苦しむ姿に快感を得る女で、ホントに胸糞の悪くなる。
そんな役を見事に演じているが、当時の普通に育った女は、条件の合う男と出会う為に、街に働きに出ているのであって、そのうち、誰か見つけて妥協して家庭に入るだろう。
お相手が見つからなきゃ、不倫もしちゃうかもだが、それは、ミルドレットのように、ひたすら目先の快楽を追いかけてやっている訳ではないんであって。

外聞が悪くなるような事は出来るだけ避けるものだし、噂されたくないもんだし、不倫だとか、そうでなくても、欲望のはけ口にされるような、安っぽい対象に見られてしまう事はご遠慮願いたいのであって。

ミルドレットは、馬鹿なんだろうか。

優しい、品のいい上等な男、ケアリーに、別の男と結婚するとまで嘘をついて、ミラーという既婚者のもとに走るのである。
そこまで描かれていないが、愛人にでもなったんだろう。
『妊娠したから(ミラーに)振られた』と、振った男ケアリーのもとに戻るミルドレット。

こんな羽目になるという事は、予測できたはずであろうに。不倫、愛人なんだからさ。

やっぱり、馬鹿な女なんだ。

不倫なんだから、ケアリーと別れず、テキトーにやっていれば良かったんだよ。
仕事場変えれば、バレない工夫はいくらでもできただろうに。

ミラーとの関係に、全てを賭けたな、この女は………

このミルドレットという純粋お馬鹿に振り回される、とことんお人好しの医学生ケアリーも、世間知らずの馬鹿である。
まあ、2人とも、「若い」んだよねえ。
何もない田舎から都会に出てきた田舎の純朴さを持った2人だ。

ここでは、「善悪」では、全ては語れないんであるよ。

2人とも、単に若くて、計算ができない田舎者だって事さ。

原作のサマセット・モームが、そういう設定を意識していたかは知らんけど。

モームは、作家だけど、実は、一時期、(戦争中か)スパイ活動もしていた人で、子どもの頃、両親を亡くし、気の合わない親戚と暮らし、吃音で──などと、ウィキペディアで読むと、このヒトの複雑な内情がわかってくるんだけど、もちろん、全てがわかるはずもないが……
医師でもあった為か、『ヒューマン・ボンデージ』の主人公ケアリーには、作家自身の投影が感じられる訳だよね。
モームにとって、吃音は、かなりのコンプレックスだったようだ。
ケアリーの右足は、湾足の馬奇足(日本語字幕より)という見た目的にも目立ちやすい病気だった。
『風と共に去りぬ』では、アシュレ役だったレスリー・ハワードの貴族的な繊細な風貌は、この映画でも生きていて、馬奇足というコンプレックスゆえの内向的で繊細な性格描写この物語の独特の雰囲気を作っているような気がする。
ただ、レスリー・ハワードなら、足を馬奇足にしなくても……とも思ったが、待てよ? そうなると、3度も、性悪女とわかっている女を受け入れなくなるかもだなあ、と思ったりしたよ。
普通の足だったら、アシュレみたいに、もっと強く、ミルドレットを拒絶するだろうなあ。

さて。

それはともかく、ケアリーは、何度もミルドレットに弱みにつけ込まれたんだろうけど、あまりにもナメられたもんだわと、呆れて、画面に向かって、

『おまえ馬鹿だな。気付けよ。この女は、おまえを馬鹿にしてるんだぜ』

と言ってやりたくなるのである。

女から振ったくせに、そいつは別の男と逃げては、その男に振られて、傷付けられるたびに、ケアリーのところに転がり込んでくるのであるからねえ。
しかも、原作はどうか知らんが、妊娠して戻って来た女を、『自分でも不思議だが、嫌いになれない』らしいのだ。
その時、付き合っていた聡明な恋愛小説家のノーラという女を振ってまで、身勝手極まりない出戻り妊娠女を受け入れ、アパートまで彼のお金で借りてやり、無事に赤ちゃんを彼のお金で産ませるという、至れり尽くせりの配慮をしてやるのであった。

馬鹿じゃん。

だが、そんなケアリーの誠意を嘲笑う(あざわらう)かのように、ミルドレットは、赤ちゃんを他人に預けて、ケアリーとその友人グリフィスと飲みに行き、そのあと、グリフィスに恋をしたとけありに告白して、出奔するのであった。
友人グリフィスに、『ミルドレットを僕から取らないでくれ』と願い、グリフィスも『好きじゃないよ』と答えるが、実は、グリフィスは嘘をついていたのだった。
しかし、お馬鹿なケアリーにとっては、こういう手痛い裏切りでもなければ、目が醒めることはないのであろう。

『良かったな、ケアリー。これで、目が覚めたろう。あの女の本性がわかっただろう?』
と言いたいよ。


さあ、ケアリー、これからは、性悪女のことは忘れて、勉学に励めよ〜〜

あ、言い忘れたが、ケアリーの付き合っていた恋愛小説家は、この映画の監督のジョン・クロムウェルの妻、ケイ・ジョンソンである。(2人の間に生まれた息子が『べイヴ』に農場主役で出ており、数年前、名前が出てたな。何の件だっけ?)

ミルドレットは出て行った────

身勝手な女だが、ここまでは、恩知らず、礼儀知らず、恥知らずな女に過ぎない。
こんな図々しい女を、相手にしたほうにも問題はある、とされる段階であろう。
これに懲りて、男は、2度と騙されたりはしなくなるものだ。
めでたし、めでたし。

だが。

もちろん、話はこれでは終わらない。

ミルドレットは、またもや捨てられるのである。
男の家にストーカーし、警察に引きずられるようにして、そこを離れた。
『3度も引っ越したが、しつこく付きまとってくる』


一方、ケアリーには、新たな出会いの萌芽があった。

それは入院している旧家の老人の娘、聡明で女性らしく、率直で健全な精神を持ったマリア・デルソルこと、20歳のサリー。
2人は育ちはじめた愛をゆっくりと育む。
……と言いたいところだが、実は、ケアリーの失恋の傷が癒されたというところだねえ。
だって、彼は、南の海だとか、オリエント地域への旅情報のパンフレットをいつも見ているようだから。


そんな時、友人から、惨めなミルドレットの現状と、ケアリーに助けを求めていることを聞かされる。
シツコイ女であるな。
しかし、今回は、ケリーの前に堂々と現れないんだな。
さすがに、恥ずかしさは感じているのか。

『仕方ないな……』とケアリー。
哀れみだけであろうが、甘い。あまりにも甘い。
受け入れるなら、責任を持って、というところだ。

またも、ミルドレットは、ケアリーのもとにやってくる訳だが、もう、カネもなく、新たにアパートという訳にもいかず、彼の自宅で同居である。

新しい恋が育っているのだから、もはや、ミルドレットなどに、目を向けることはないが、
ミルドレットのほうは、昔は気持ちに余裕もあったのか、男に飽きられやすい自分の性格を理解したのか、みじめな現実から這い上がるために、ケアリーの気を引くことに必死だ。

ミルドレットは、実際にはここまでくると、馬鹿ではないなとわかってくる。
なぜなら、ケアリーとの会話で、ちゃんと、自分が愛されていないことを理解しているからだ。

『感謝してるわ』
『部屋を借りてあげたいが、当分ここで我慢してくれ』
『私も赤ん坊も──あのままでは、どうなっていたか』
『気にしないで』
『いつも優しいのね。こんな愚かな私に
『言っても仕方ない。その話はやめよう』
『気が済まないわ』
『誤解のないように言っておく。僕はただ……』
『一度は愛した女だから、ほっておけないんでしょ』
『そうだ………』
『せめて料理や洗濯をさせてちょうだい………いつかわだかまりも薄れて…………昔のように……』
『…………』

という会話のあとも、南方の島の旅行パンフレットを見つめてるシーンなんだが。

別のシーンでは、ミルドレットの優しいケアリーとの同居に、根を張ろうという野心がうかがえる。
少々妻気取りである。インテリアに文句を言う。

ここで初めて、ケアリーの良さに気付き始めた、つまり、成長したミルドレットがいるとわかる。
馬鹿ではなかったのだ。
だが、こういった女の現実的な成長については、男は鈍感だ。とくにケアリーは、

『なぜなの? よそよそしいわ』
『何度も絶望して、傷ついたせいかな。別にいいだろう』
『私に冷たくされた時の気持ち、覚えてる? 同じことを、今、私にしてるのよ』
『…………』
『誰か(別の女が)いるの?』
『…………』

旅行のパンフレットを見るケアリー。


ここからが、スゴイシーンの連続になるのだが、こういうエゴイスティックな女を中途半端に受け入れたことで、とんでもない犯罪行為をされるに至るのだという事実だけを、頭に留めておけば良いと思う。


この女が次に行う行為は、今でいうなら、スマホの盗み見である。
女性がいないか、彼に来た手紙類を、そっと開けて見るという犯罪行為である。

『女はいないわね』

次にに、ミルドレットは、下着姿で(身体の線がモロ見えのドレスか?)ケアリーを誘惑しようとするが、
『吐き気がする』と言われ、拒否される。
そして、ミルドレットは、ヒステリックに暴言を吐く。

次に、ミルドレットは、ケアリーの室内をメチャメチャにし、彼の大切にしている絵画をナイフで切り刻み、ケアリーの叔父からの小切手を燃やす。
それは、ケアリーにとって、大学を卒業する為に、必要なものだった。

この事態は、警察沙汰にすべきである。
(と私は思った)

卒業できない常態となったケアリーは、仕事を探す。だが、その前に、足の手術を受けることを勧められ、普通の人並みに治る。
ここで、足を治す手術を入れ込んでくるなんて、どういう流れをかんがえてるんだろうか。
不自然だと思った。これは前から思っていた。
すでに書いたと思うが、この物語に、コンプレックス要素の変形足の病気を入れ込む必要があったんだろうかとは、まだ思うよ。

人並み以上の優しさを持つケアリーは、結局、自分の外観上のコンプレックスから、そうなっているのであり、それゆえに、その飛び抜けた優しさがむしろ仇(あだ)となり、小狡い人間達に利用されるのである。

だが、仕事を探しても、全て面接落ち。
家賃も払えず、家賃を支払えるまでは、アパートから締め出されたが、サリーと、その父親の屋敷で世話になることになった。
サリーに仕事先も見つけてもらった。百貨店で働き出すケアリー。
その姿を見つけた、ミルドレット。

かなり、ストーリーを説明してきたが、やはり、最後は書くのをやめよう。

これは、モノクロだが、カラーで観たほうが楽しいと思う映画だと思うよ。
けばけばしいミルドレットの化粧や、清楚なサリーの表情をカラーで見たくなる。


ともかく、ラストは、ミルドレットは行いにふさわしい最後で不幸に
ケアリーも同様、幸福になるというもので、納得です。



***********************************


私がなぜこの『オブ・ヒューマン・ボンデージ』という映画について、語ったか、というと、
わだかまりのある、行き違いで事態がこじれた相手が、8年ぶりに電話をかけてきたからだ。
彼女がミルドレットのようなのである。

全ての責任は私にあると受け入れて、全てから手を引いた。

言いたいこともあったが、諦めた。
仕事なら、そういうことは、よくある事だろう。
だが、仕事ではない。
だが、私以外の人々にとっては、仕事につながる場合もあった。
彼女は、私が、絶対に守って欲しい約束を守らなかった。
そして、私の知人に挨拶をしなかった。
彼女は、おかしな連れを同伴してきた。
私にさえ挨拶しなかった。

常識以前の問題だった。
彼女と付き合わないほうが良いと、多くの人から助言された。

そういう事があったのである。


という訳で、その彼女から電話されることは、本当に驚いた。
未だに、受けとめかねているのだ。
混乱している。

昔と同じような、こじれてきた恋愛話。

いくつなの? あなた………

恋愛なんてと考えている人には、たとえ80歳でも、私は恋を出会いをと、積極的に勧めるが、
頭の中がsexで充満している人には、いいかげんにしなさいよ、と私は言うだろう。
彼女にに幸せな結末なんてなかったし、
男の二股女の先に乗り込んで、何やった?
あの美容室。乗り込んで。
宣戦布告してきたあの女も悪いけどね。

怖いよ、あなた。

同性から嫌われても、男に逃げ込んで、狭い世界で、噂大会。
コップよりも大きくて、丼よりも小さなあなたの世界は、
東京じゃあ通用しない。
地方でも通用しなかったのなら、気付いてほしい。
挨拶もしない人間は、何事も通用しないんだって事。

私の周辺、あなたのこと、知ってる人は嫌ってる。
嫌われて、あたりまえだと思う。
私もあなたの事、嫌いだよ。

息子からも、あなたの存在はストレスだって?
ずっと、変だと思ってたから、納得。

『私の目の前から消えてよ』
心から、そう思った。

病院行きなさいよ。
本心からそう思う。
トラウマ抱えたままじゃ、まともに生きられない。
苦しみと向き合うことは、避けて通れない。


私の悩み事は、霊媒体質だった。
精神の病と、微妙に違いがあった。
20代のある日、私は病み始めた。
そして、いまは、完治している。

だから、霊的な事については、確実に、攻めの姿勢で、というのがポリシー。
ソトヘ向かってゆく戦いじゃあないからね。
現実が全ての基礎であり、起点であり、ゴールの舞台。

そういう事を話すには、あなたには遅すぎるんだろうか。

























 

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